♪ビッグウェーブが弾けたら 華やかな九月♪
まだ七月、梅雨明け前ですが、今回の妄想は九月に間に合うのやら・・・
***********************
その頃、僕はなぜか夜明け前に目がさめてしまうことが多く、家のすぐ前の海岸を散歩するのが日課のようになってしまっていた。このあたりの海岸は白い砂浜が続いていて、人気のない時間帯に波打ち際を砂の感触を確かめながらゆっくり歩くのは気持ちが良かった。
その朝もまた薄明の頃には目が覚めてしまい、パーカーを一枚羽織って素足にキャンバス地のデッキシューズをつっかけると、ばあやのシゲさんを起こさないように静かに外に出た。
我が家はほとんど直接海に面しているというような立地なので、ゆるやかなスロープを少し下っていくとすぐに砂浜に出る。波打ち際に何か見慣れないものが落ちているのが見えた。どうも人が横になっているようだった。ここは海水浴場ではないし、もちろんまだ甲羅干しの人がいるような時間帯でもない。胸騒ぎを覚えながらそばに寄って行った。
倒れているのは若い女性だった。淡いピンク色のスリップのような服を身に付けていて、足許は裸足だった。髪も身体もすっかり水に濡れている。目を閉じて眠っているようにも見えた。最初に彼女の口元に顔を近づけて呼吸を確かめた。寝息のように弱々しいが、確かに息はあるのを確認すると少しほっとした。
あらためてその人の姿を眺めた。肩や腕、覗いている足の肌の色がなまめかしく白かった。髪は都会的に短くカットしたスタイルで、眉もきれいにそろえられていた。目を閉じた顔は絵画のように美しかった。
普通なら誰か助けを呼びに行くべきところだったのだろうが、僕は彼女の上体を抱き起こすと、なぜか吸い寄せられるように彼女の唇に口づけていた。身体も唇も冷たく冷え切っているのがわかった。
自分が何をしているのか気付いてはっとして唇を離した。彼女がゆっくり目を開けた。ぼんやりとした視線で僕の顔を見ると、驚くでもなく笑うのでなく、それでも何かを訴えるような表情を僕に投げかけた。
******************************
救急車か警察でも呼ぶべきだったのだろうが、僕は彼女を抱き起こすと背中におぶって自分の家に向かった。結局シゲさんは起こさざるを得なかった。シゲさんのたまげ方と言ったら・・・
それでもシゲさんが彼女をお風呂に入れたり着替えさせたりしてくれて、彼女を客間のベッドに落ち着かせることができた。
いつもかかりつけの先生に往診を頼んで診てもらった。
彼女は口が利けないわけではないようだった。問いかけに対して短い単語で答えが返ってくることもあった。しかしまだ込み入った話はできそうになかった。自分の名前も思い出さないのか、激しく首を降った。何か大きな精神的苦痛を受けたためかと思われた。
「身体のほうは衰弱はしてるけど、怪我もなさそうだし、安静にしてれば大丈夫でしょう。」そう言って先生は帰って行った。
「坊ちゃん、あたしは反対ですよ。あの娘をここにおいとくのは。」
シゲさんは未だに僕のことを坊ちゃんだ。これでも、もう30過ぎてるんだぜ。
「だけど、今のあの様子じゃ放り出すわけにもいかないだろう。警察に渡すってのもあんまり人情がない話じゃないか。もう少し元気になるまで少しの間だよ。いいじゃないか、家は部屋だけは余ってるんだ。」
シゲさんもしぶしぶ承知してくれた。
そうこの家は部屋だけは確かに余ってる。海辺に立つこの古びた洋館、広さは僕とシゲさんの二人だけの暮らしには持て余すほどに広い。
この建物はもともと祖父の代からの海辺の別荘だった。親父が亡くなった時に、僕は望んでこの家だけを相続した。親父の会社や都内の家は全て長男の兄貴が引き継いだ。既に他家に嫁いでいた姉は、証券や都内の不動産といったもっぱら「金目」のものだけを持って行った。僕は親父の(今は兄貴の、だ)会社にも興味がなかったし、兄弟で相続でもめたりするのも嫌だった。ああ、でも僕が引き継いだものがもう一つあった。シゲさんは僕が海辺の洋館で一人暮らしなんてとても無理だと行って、僕のところに来てくれた。
***********************************
彼女は数日すると起き上がって生活できるようになった。食事も僕とシゲさんと同じテーブルで取れるようになった。しかし、自分の名前や倒れていた事情になると相変わらず首を振るだけで、依然謎のままだった。
我が家には当然だが若い女性の服などあるはずもなく、さしあたってシゲさんの服や僕のシャツなんかを着てもらっていた。そんな格好でも彼女が着るとお洒落なファッションのように見えるのが不思議だった。しかし彼女の表情は氷に閉ざされているようで、ほとんど感情を表さなかった。
僕は仕事は「音楽家」ということになっている。実際は作曲と編曲が半々ぐらい。テレビや映画の仕事がほとんどだ。注文をもらって、それに適当に音楽を付ける。予算がある仕事だと譜面を書いてオーケストラなんかにやってもらうが、予算のない仕事だと自分でシンセサイザーやピアノで演奏したりもする。演奏家ではないので、大半は家で仕事をしている。
映画とは言ったが、いわゆる大作は僕みたいな無名のところには来ない。一番多いのはポルノ映画の仕事だ。「扇情的に」とか「気怠い雰囲気で」とかいう大雑把な指示に沿って音楽を乗せる。
「いや、ぼんの音楽はほんまに天才的ですわ。キダタローが浪速のモーツァルトやったら、ぼんはピンクのモーツァルトやな。」
こういうよくわからない褒め方をしてくれるのは、そのポルノ映画の巨匠といわれる監督。ほめられて悪い気はしないが、この人も僕を「ぼん」呼ばわり。僕の親父が若かった頃、親父のもとで書生のようなことをしていたせいで、今となっても僕は「ぼん」らしい。もっとも僕が巨匠から仕事がもらえるのもそのおかげなのだろうが。監督は映画通の間では「鬼才」とその才能を評価されながら、いわゆる普通の映画は頑として撮らないらしい。僕も一度聞いてみたことがあるのだが、「そら若い女の娘の裸が見られん映画やったら、撮ってて一個もおもろいことあらへんがな。」という答えだった。
彼女が家に来て一週間ほどした日、僕はピアノを弾きながら、「巨匠」の映画に付ける音楽の譜面を書いていた。ふと気がつくとそばに彼女が来ていた。
「ピアノ」とつぶやく彼女の表情は、今まで見たことがないほど明るく輝いていた。
「ピアノ、弾きたい。」と彼女が言い、僕は彼女をグランドピアノの前に座らせた。
モーツァルトだった。暗譜しているらしく、完璧だった。しかしそれ以上に驚いたのは、彼女が鍵盤で紡ぎ出す音色だった。一音一音が粒だってきらめくようだった。例えばコンクールで優勝するようなテクニックに優れたピアニストでも、こんなに色彩豊かで生命力にあふれる音を出せる人はめったにいないものだ。
彼女が一曲弾き終えてにっこり微笑むと、僕は思わず拍手していた。
(つづく)