Sweet Memories
「おせいちゃん」の続きです。
「上海ベイビー」はレンタルしてるんでしょうか。
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おせいは日本橋にある大きな商家にいた。
はじめこの家におせいは台所の下働きとして働き始めた。繁盛しているこの店では人手はいくらでも欲しいものらしかった。元来が働きものでよく気がつくおせいは、やがて台所仕事だけではなく、店先での客あしらいなどもまかせられるようになった。
そんなことで三年ほど経ち、おせいはこの家の主から後妻にと求められた。おせいとは親子と言っても通るような年の差だったが、それも珍しい話でもなかった。
「あたしの後妻、といっちゃあ何だが、あの子らの母親になっちゃあくれまいか。」亡くなった先妻との間の二人の子はまだ小さかった。
「旦那様、あたくしは先に亭主だったものが居りました。」
おせいは正吉と暮らしていたことを隠さずに言ってみたが、このさばけた男はそんならやもめ同士でなお好都合というようなことを言うのだった。
「若いお前にあたしのような年の亭主では少し可哀想な気もするが、今まで見てきて子供らに母親として仕付けのできそうなのはどうもこの店ではお前ぐらいだ。他のもんでは甘やかすか厳しくするだけになっちまう。それに何よりあの子らのお前になついてるのを見てると、あれでなかなか人ってものが見えてるんだろう。それとな、あたしも田舎から一人で出て来てなんとか日本橋に店を持つことができた。店のことはだんだんお前にまかせて、あたしは少し好きなことでもしようかと思ってるんだ。どうも自分のわがままばっかりのようだが、どうだろう。」
おせいも、身元も素性もないような自分を置いてくれたこれまでの恩を思うと、断り様もなかった。
下働きが大店の主の後妻にというので、子供を手なづけたの何だのやっかみを言うものが店の中にいないでもなかった。それでも三年も経てばおせいの切り盛りのしっかりしたところや人への裏表のないところで、すっかりお店の奥様で頼られるようになっていた。
ある日のこと、おせいは店先で使用人にあれこれと指図をしていた。ふと視線を感じて目を上げると、離れた先に旅装束の侍の姿があった。笠を深くかぶり顔は見えなかったが、おせいが目を上げると踵を返して足早に去って行った。
おせいはその後姿を見送って、はっと胸をつかれる思いがした。人というのは不思議なもの、同じような背格好の男など世の中にいくらでもいるようでいて、そのただ一人の背中が何年経っても忘れられないのだった。
胸騒ぎをひた隠しに幾日かを過ごしたおせいのところに、「かならずおかみさんだけに渡す様にと言い付かりました。」と丁稚の一人が手紙を持って来た。
おせいは誰もいないところで手紙をひらくとまた懐中に深くしまいこんだ。
おせいも神田明神にちょっとお札をもらいに行くと言えば、普段から思い立ったが吉日の質だけにそう目立つこともなかった。神田明神には祭日でなくても人のとぎれることはない。おせいも今は女盛り、けして派手な成りをするわけでもなく、年の割りには地味な着物だが、匂い立つような色香は人目を引かずにはおかない。幸いに、手紙にあった通りに本殿の後ろの大伝馬町八雲神社に回ると他に人影はなかった。あたりの様子を気にしながら小さな社に手を合わせていると低い声がした。
「おせい」
紛れもない正吉の声だった。振り返ると町人の姿をした正吉が後ろに立っていた。
「お前が幸せにやっているようで俺は安心したぜ。」
幸せ、とおせいは心の中でつぶやいた。傍目から見れば大店のお内儀となったおせいに何の不満もあろうはずがない。おせい自身、旦那にも子供にも何一つ不満などない。店の切り盛りも任されて忙しく日々を送っている。
だけど、とおせいの心は言う。幸せという言葉があるとしたら、あの正吉と暮らした長屋の暮らしが一番の幸せだったと。それがあんたにはわからないのかと。
「俺はお前を嫁になんぞしちゃいけなかったんだ。だけど、お前と暮らすのがあんまり居心地が良くてつい。だから、お前には済まなかったとずっと思ってる。俺のせいでお前を不幸せにしちまった。だから、今のお前が幸せでいてくれりゃあ、こんなうれしいことはねえ。」
「お前さんは」と言いかけて、おせいは次の言葉が出てこない。恨みごとを言えばいいのか、何を言いたいのか自分でもわからない。思わず正吉の袖にすがりつき、正吉の胸に額を押し付けた。
正吉はおせいを抱いてやりたいのをこらえている。いまは人の女房となったおせいを呼び出すだけでも道ならぬこと。おせいもまた、正吉の匂いの懐かしさが身体に広がるのをどうしようもなくこらえていた。二人のどちらかが何かすれば、砂糖菓子のように崩れてしまいそうなところを、ただそうやって立っていた。
どれほど時が経ったか、正吉が思いきって口を開いた。
「おせい、京の町が今どんなぐあいか聞いてるだろう。」
おせいは顔を上げて正吉の顔を見た。長屋に暮らしていた頃に比べれば、おせいの世間もずいぶん広くなった。尊攘派の浪士による京の騒乱のことは江戸にも伝わってきている。天誅組の変は三年前、蛤御門は一昨年のことだ。今は公方様が長州征伐をするやらしないやらともっぱら市中の取りざただ。
おせいの店にはいろんな人間が出入りする。正吉のかすかな訛りが甲州のものでないことも今のおせいにはわかる。あらためて見る正吉の顔は相変わらずの男前だが、目尻や額の皺は刻んだように深くなった。おせいにも正吉がどんなことをしてきたのか、朧げにわかった。
「お前さんは」またその先が続かなかった。
「俺の仲間はあらかた死んだ。志のあるやつほど早く逝っちまった。俺の命もハナからねえもんだと思ってる。」
志、という言葉がおせいの胸に刺さった。男なんて、とおせいは思う。手前勝手ばかりじゃないか。
「あたしは正吉と暮らした長屋暮らしが一番の幸せだった。」おせいはようやく言葉を次いだ。「もしも、来世ってもんがあるなら、今度こそ、ただの正吉のお前さんと添い遂げたい。」
お前さんは今だってあたしには植木屋の正吉なのに、と言いたいのを呑み込んだ。
「もう、もう逢えないんだね。」
正吉は頷いた。「来世があれば。」
「この先ひょっとすれば江戸の町も戦になるかもしれねえ。おせい、いいか。生きろ。何があってもお前は生きてくれ。」
これだけ言うと正吉はおせいに背を向けて行こうとした。
おせいはこらえきれずにその背中にすがった。
「もういっ時だけ。もういっ時だけこうさしておくれ。」
やがておせいは正吉の背中から離れ、着物のえりを直した。八雲神社の社の前に手を合わせると、思いを振り切るように、「あたしが目を開ける前に行っておくれ。」と言い放った。
おせいが目を開けた時、正吉の姿はすでになかった。おせいは泣かなかった。もう昔のおせいではない。夫と二人の子供のために生きるおせいであり、また正吉の命の分も託されたおせいであった。幸せの思い出のひとつふたつ胸にあれば生きていける。
まことに蛇足ながら、正吉と名乗った男は戊辰の戦いで果てた。おせいは長命し明治の世が大正と代わるまで生きた。その間に二人が二度と逢うことはなかった。
(了)

