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2008年10月

2008年10月31日 (金)

野菊の墓

こうなれば毒喰わば皿まで、ではないですがついに入手しました。
「野菊の墓」サントラ盤。
(あ、別にレコード盤とお皿をかけたわけではありません。そこまでオヤジギャグの人ではありません。え、なんでレコードがお皿かって?やっぱりオヤジか。。)
そうです、リアルタイムで前髪のない聖子ちゃんに衝撃を受けたあの問題作です。でもねえ、いま見ると別の意味でかわいいですねえ。当時19歳で17歳の役を演じてるのですが、ほんとに幼い顔してるんですよね。

歌ってる主題歌も当時はなんか暗い歌だなあ、と思ってたのですが、今聴くと素直でみずみずしくて良いですねえ。映画観てないので、ビデオを探したくなりました。ヨメサンは相変わらずぶつぶつ言ってますので、いない時に観るつもりです。

あとは「カリブ・愛のシンフォニー」か。う〜ん。

2008年10月29日 (水)

アナログの人

その後、DVD見てたら何かフォーが控えめでしたね。いやあ、悪いこと書いちゃったかな。気にしなくていいよ、聖子ちゃん。思い切りやって。
って、そんなわけはないですが。
ツアーのDVDと新曲のCDシングルが同日発売で、アマゾンに予約を入れてたのですが、シングル(初回限定盤、DVD付き!)のほうが出荷が遅れて、昨日届きました。出荷が遅れるって聖子ちゃんに何かあったのか!と心配になりましたが、そんなわけはないですね。
それにしてもCDシングルというのは微妙な商品ですねえ。今回はDVD目当てについポチっとしてしまいましたが、普通はちょっと買うのがためらわれませんか。まあアナログ盤の時代もドーナツ盤は買わない人間でしたから。
で、まだ特典DVDの方しか見てないんですが、いやあ良かったです。CDシングル無しでこっちだけで売ってくれてもいいです。入手前に既にYoutubeには上がってたみたいですが、我慢して見ないようにしてた甲斐がありました。これは買いです。

それで思い出しました。今では信じがたいことのような気もしますが、聖子ちゃんレコードの時代の人なんです。栄光のシングル連続24曲オリコン1位というのも大半(全部?)はドーナツ盤のはず。今CD選書になってるアルバムもオリジナルはLP盤ですよね。昭和、だし。
また意外なことに、24枚のうちでミリオンセラーはおそらく「ガラスの林檎/Sweet Memories」だけ。毎年シングル4枚のペースですから年間ではゆうに2ミリオンぐらい売ってたはずですが。
それと聖子ちゃんの時代は家庭用ビデオがちょうど普及期を迎えた頃に重なっています。そのおかげで貴重なTV映像がアーカイブされ、今になってネット上に山ほどアップされているわけです。もうちょっと前の人だとこんなには映像残ってないかもしれないですね。

願わくばその貴重なアーカイブを、きちんとした形で入手できるようにしてほしいものだと思っています。

聖子ちゃん世代の僕たち、結局アナログな人たちなんでしょうね。

聖子ちゃんはパソコンとか得意じゃないみたいだし、筋金入りのアナログな人だと思います。いーんです、それが。

2008年10月25日 (土)

フォー!(天才、松田聖子2)

昨日は珍しくミュージック・ステーションを見てたら、しょこたんが出てました。新曲「綺麗ア・ラ・モード」は松本隆×筒美京平センセイなのだそうで、さぞお喜びでしょう。(誰が?いやしょこたん本人が)

しょこたん、独特の感性とインテリジェンスを持った才能のある子だと思います。歌も結構うまいし。ただねえ、本人があまりに聖子ちゃんファンなので、つい歌を聴くと「ああ、この曲聖子ちゃんだともっと良いのになあ。」というところに行ってしまうんですねえ。SAYAKAちゃんが「ちょっと声似てるけど、やっぱママのほうが」となっちゃうみたいなもんですか。二人に罪はないんですが。

「天才、松田聖子」の続きですが。聖子ちゃんの歌のうまさ、肝というのは感情表現、歌詞の内容を微妙な声の質感に乗せられるところだと思ってるわけです。ところが矛盾するようですが、意味のないかけ声みたいなところがこれまた抜群に天才的なんですねえ。

「おっほほっほ」(Only My Love)

「うぉっほう」(一千一秒物語)

「びだん・びだん・びどゅびどゅびだんだん」(いちご畑でつかまえて)

「テュルリラ・テュルリラ」や青い珊瑚礁の「あ〜〜」も意味はないですが、こういうところの歌い方というか声の出し方は天才的。普通に譜面見て歌ってもあの表現は出てこないと思います。

(余談ですが、坂本九が「上を向いて歩こう」歌った時も譜面に書いてない音が一杯間に入ってくる歌い方だったんだそうです。モーツァルトのピアノ協奏曲とかソロのところが簡単にしか書いてなくて、ソリストがアドリブで装飾的に弾いてたってのと似てますかねえ。まあ、僕譜面とかわからないので適当なハナシですが)

聖子ちゃんに戻ると、その天才的な意味なしフレーズの中でも極めつけだと思うのが、「SQUALL」の中の「ロックンロール・デイドリーム」。途中からあまり歌わなくなっちゃいましたが、ロックっぽい曲は上手いですねえ。ロック・ヴォーカルに行ってればそれでも行けたと思います。(演歌でも行けたと思うけど。)でその歌が終わった最後に一声だけ「フォー」が入ってます。このクールな感じが本当に天才的です。ぜひご確認下さい。

40代のコンサート映像で聖子ちゃん、かなり「フォー」を叫んでますが、多過ぎるせいか、ご免なさい、ちょっとイタイです。今日はこれから、昨日届いた今年のコンサート・ツアーのDVDを見るつもりですが。。。やっぱり「フォー」言ってるんでしょうか。

2008年10月24日 (金)

1984

この年僕も4年生になった。院に残って勉強する気など露ほどもなく、人並みに就職のことが気になっていた。

隣室の院生の先輩のところでテレビを見ていると、カネボウのCMに聖子ちゃんが出ていた。「Rock'n Rouge」。

その薬学部の先輩によれば、資生堂はCMに正統的な美人しか使わないがカネボウは親しみやすい子を使うのだとか。まあ僕の学科じゃ資生堂もカネボウも就職はないな。それにしても聖子ちゃん、目元の印象がなんか違う?

チープな紺色のスーツを着て、何となく友達にくっついて会社訪問に行ったりし始めた。最初に受けたところは面接ですぐに落ちた。

次に受けたところは最初のところとはかなり違う業種だったが、いつの間にやら通ってしまった。もう別に他を探す気もなかった。これで来年は社会人か。

Alice_in__timeland 「誰だって大人にはなりたくないよ」

時間の国のアリス

「時間の国のアリス」で永遠の少女になる宣言をした聖子ちゃんは、しかしいつの間にか同世代のモラトリアム男子とは比べ物にならない程大人になってしまったみたいだった。僕も就職活動や研究室に関心と時間を取られたせいか、聖子ちゃんの歌を聴く機会も少なくなっていった。

1984年、レーガンが再選されロン・ヤス時代は続く。

1983

この年の最初の曲は「秘密の花園」だった。

すごいミニ。うわあ、太ももが・・・

ともかく、僕はなんとか進級することができた。

夏休みだったと思うが、実家に帰ると自分の部屋(唯一ステレオのある部屋だった)に聖子ちゃんのポスターが貼ってあった。姉が買った「ユートピア」に入っている奴だった。長年の「ひろみ」ファンがLPを買うほどに、聖子ちゃんは「ひろみの恋人」として認められたのだろうか。(もちろん姉には聞けなかった・・)

僕の学生生活は夏の穂高が雨でなんにも登れなかった以外はこともなく過ぎて行った。

「天国のキッス」ではじけた後は「ガラスの林檎」だった。

Glass_apple

が〜らすの林檎たち〜

この鳥肌立つような感覚は一体なんなんだろう?

その後テレビを見ていたらアニメのペンギンが歌っていた。僕には声の主が誰かすぐにわかった。こんな声、聖子ちゃんしかいないじゃないか。

この年、聖子ちゃんはまちがいなく一つの頂点に立っていた。そして頂上というのはどこか寂しさの漂う場所だった。

1983年。カレン・カーペンター死去。ロナルド・レーガン来日。「おしん」放映。インターネットの始まり。

2008年10月19日 (日)

嗚呼、Seiko!

「永遠の少女」は聴けば聴くほど味が出てくる感じです。
それに比べて、今ちょっと困っているのは、「Seiko」をどう評価すればいいのか、ということです。僕は基本的に聖子ちゃんのやる事にはイエスマンであることを誓っているのですが・・・まあ、一言だけ言うなら、

この時代の音楽はつまらなかったな

でしょうか。

まあ、それだけではなんなのでもう少し補足します。

1990年のこのSeikoの全米デビュー・アルバムには湯川れい子先生がライナーノートを書いています。この全米デビューがいかに期待されたビッグプロジェクトであり、いかに周到に準備されどれほど錚々たるスタッフやマネージメントのもとに作られたものかを湯川先生は熱い思いで語っています。日本から世界のスターになるという、ある意味湯川先生の悲願めいたものに一番近いところにいたのがSeikoであったと。そしてそれほどの意義のあるチャレンジに全く理解を示さなかった日本の芸能マスコミやその背後にある「男社会」に湯川先生は憤ってさえいるようです。

それにしてもこの1990年という時代はバブル経済の絶頂、あるいはバブル崩壊の始まりの年と後世に評される年でした。前年の89年には三菱地所グループがロックフェラー・センターを、そしてソニーがコロンビア・ピクチャーズを買っています。湯川先生の悲願は別として、Seikoの全米進出にはそんな時代背景が強く影響していたものと思われます。もちろん本人が強い意欲を持っていたことも事実でしょうが。

そんなバブルの時代の音楽は何かあまりにも空疎なものに聴こえてしまうのです。時代背景を別にしても、Seiko自身この初めての試みをやはりミュージシャンとして消化しきれなかったのではないかと思います。以前に1996年の全米第2弾「WAS IT THE FUTURE」について書きましたが、この「Seiko」の後にあらためて「WAS IT THE FUTURE」を聴くと、6年間に彼女がいかに努力しいかに進歩したかが改めて伝わってくる思いがします。そう思うとなお、「聖子ちゃんは悪くない、時代が悪かったんだ。」と言いたくなるのです。

(そしてこの時代の聖子ちゃんの眉毛も良くなかった、です。)

まあ、アマゾン・マーケットプレースで「1円」で入手したCDにあんまりぶつぶつ言うのもセコい話ではありますが。

2008年10月16日 (木)

怖いなら降りて

前回のエントリーから、クルマ繋がりで今回は「永遠の少女」の中の一曲、「ペーパードライバー」についてです。
アルバムの中でもちょっとコミカルで軽い感じのこの曲、この頃僕のお気に入りなのですが、実は松本隆センセイのなかなかに深いメッセージのように思えます。

「永遠の少女」という1999年のアルバム、実に久々の松田・松本コンビの復活、だったらしく、その仕上がりに再びの松田・松本時代を期待した向きも多かったようです。しかし当事者はあくまで「同窓会」としての再結成だったようです。

今日は一緒にやっているけど、明日からはまた一人で、誰の力も借りずにやって行くんだよ、と松本センセイは送り出す、松田さんは決意する、そんな歌に思われてならないのです。

かつての松本センセイが描いた少女は、

「怖いのよ 違うレールの上走る気分なの」ボン・ボヤージュ

「このまま流されてもいいわ でもね 怖い」スピード・ボート

と歌っていました。

今、ペーパードライバーながらにハンドルを握って海を目指す彼女は

「怖いなら降りて」

と毅然として言い放ちます。

どんどん新しい世界にチャレンジしてどんどん変わって行く松田さん、付いて来れる人だけ付いてきてと言っているようです。

シンガーソングライターとしてはお前さん、まだまだペーパードライバーみたいなもんだ、だけど自信を持って一人でやって行くんだよ、と松本センセイは放り出すのです。何とも厳しくも温かい歌ではありませんか。

この危なげなドライブに付いてこれた人だけに「優しいキス」は待っているのだそうです。

でもね、付いて行くファンのほうが結構大変、違うレールの上の気分だったかもしれませんね。

2008年10月13日 (月)

かなり真っ赤なロードスター

この街に来たばかりの僕は、土曜の晩に愛車をころがして海岸の道路にやってきた。
岬へと続く道の入り口にあるドライブインの駐車場に入ると、案の定気合の入ったマシンが数台並んでいる。
ドライブインのカウンターでコーヒーを頼むと、先にいた客の一人が話しかけてきた。
「オレはボビー。あのマスタングGTはあんたのかい。相当いじってるだろう。」
「ジョンだ。まあね。君も走り屋なのかい。」
「サタデー・ナイト・レースさ。ここのルールは1対1、ここがスタートで岬の突端のパーキングがゴールってわけさ。」
「面白そうだな。」
「あんた、ここは初めてだろう。じゃあ、天国湾道路(Heaven-bay road)のプリンセスは知らないな。」
彼は、ここのサタデー・ナイト・レーサー達の伝説となっている女性の話を始めた。
「プリンセスは真っ赤なロードスターを転がしてた。ポルシェの356ロードスター。ちっこい車だがすばしっこい。コーナリングは最強だ。」
「彼女とレースしても誰も勝てなかった。もちろん最初はみんな甘く見てたのさ。女の子のあんなちっこい車と思うからな。でも結局誰がどんなマシン持って来ても全滅なのさ。」

「ここに来る連中は赤のロードスターと勝負するのにみんな血眼になってた。何しろいつのまにか、彼女との勝負に勝てば彼女のハートも頂きって話になってたからな。プリンセスはシンプルな格好だけどいつもキュートだったよ。ポニーテールの黒い髪をなびかせて走るのさ。」

「ポルシェは確かに良いクルマだけど、君のスティングレイが絶対かなわない相手じゃないだろう?」

「ああ、オレもそう思ってチャレンジしたさ、もちろん。

この天国湾道路のレースにはコツがいる。道幅が狭くてコーナーばかりだから、前を追い抜けるポイントは多くない。スタートで前に出られるとなかなか抜けないのさ。

プリンセスのロードスターはスタートの加速が抜群。あとはコーナーをブロックするライン取りだ。

無理に追い抜こうとして縁石にヒットしてパンクした奴、新車にケムをはかせた奴・・・プリンセスのハートを射止めるのは命がけだ。」

「面白そうだな。今日はプリンセスは来ないのかい。」

「ああ、プリンセスはもうレースはやめた。彼女を追い抜いた奴が現れたのさ。」

「そうなのか。ちょっと残念だな。一体どんなマシンだい、彼女に勝ったってのは。フェラーリ・デイトナか?」

「シトロエン」

「え」

「シトロエン2CVだ」

「あのブリキのおもちゃかい?冗談だろう。」

「プリンセスのロードスターのチューニングはベンがやってた。この街でヨーロッパ車のメンテナンスができるのはベンのところしかないからな。」

「ベンはメカニックだが、走り屋じゃない。だけどいつもロードスターのチューニングに来るプリンセスにほれてたってわけさ。

プリンセスからサタデーレースの話を聞いてたんだろう。だから絶対に自分が彼女のハートをつかもうと思ったんだな。でスペシャル・マシンを組み上げたってわけだ。」

「それにしてもシトロエンじゃあ・・」

「ボディが一番軽くてすかすかなのがシトロエンなんだとさ。それにビートルのエンジンをチューニングして前と後ろに2つ載せた。これで4WD、8気筒の2CVさ。」

「クレイジーだ。」

「バランスは最悪、真っすぐ走るのがやっとで、コーナリングなんてありえないと言ってたよ。」

「僕も乗りたくないな。」

「ベンとシトロエンを見て、プリンセスもびっくりしたようだったが。ベンの作戦はとにかくスタートのパワーとトラクションで前に出ることだった。コーナーじゃどこに吹っ飛んでくかわからないような動き方するから、さすがのプリンセスも抜くに抜けなかったんだろう。」

「それでベンが勝った?」

「ぎりぎりだったがな。ゴールでプリンセスにベンが言った台詞が洒落てた。
『プリンセス、悪いけど帰りは君のクルマに乗せてってくれないか。片道分しかガソリン入れてこなかったんだ。』だとさ。」
「ともかくベンのハートが伝わったんだろう。プリンセスのほうがベンに首ったけになっちまった。レースもやめて、すぐにベンと暮らし始めた。」

「それじゃ、プリンセスも今じゃ修理屋の女房ってわけか。」

そう聞くと、ボビーは軽くため息をついた。

「ああ、そうだった。ふた月前まではな。いいカップルだったんだが。
プリンセスは歌手になるとか言ってこの街を出ていった。まあ、ショービジネスならこの街じゃダメなのは確かだが。
ベンも納得して送り出しはしたらしいが、それで急に老け込んじまって。今じゃよく店で飼ってるカナリヤに話しかけたりしてる。」
「まあ、チューニングのことならサンセット通りのベンの店に行くといい。腕は確かだ。店の前の歩道にシトロエンが停まってるからすぐわかる。今はもう動かないスペシャル・マシンだ。」

ボビーの話はこれで終わりだった。
「それより、ジョン。マスタングGTの走りを見せてくれよ。勝ったほうが飲み物をおごるってことで。ああ、5つめのコーナーには気をつけろよ、奥に行くほどRがきつくなるからな。」
(おしまい)

2008年10月11日 (土)

デジタル聖子

富士フィルムの企業サイトに行くと、いきなり聖子ちゃんとみゆきさんが出てきます。よほどアスタリフトに力を入れてるということでしょうが、会社のPCで開いてしまうと妙にどきっとしてしまったりして。。
昨日書きましたが、みゆきさん曲の件、よろしくお願いします。って、伝わらねーか。
AV(アダルトじゃないほうですよ、念のため)評論家の麻倉怜士という人がいます。この方は有名な聖子ちゃんファンなんですが、この前日経かなんかのサイトに面白いことを書いてました。
最近のテレビやBDレコーダーには元のソースの解像度をアップコンバートする機能が搭載されてます。たとえばDVDのSD画像をフルHDに変換したりしてるわけです。最近はこの技術がどんどん進化していて、地デジの映像をそのまま見るよりレコーダーに撮って再生するほうが画質がよくなる逆転現象まで起っているのだそうで。で、麻倉さんが書いてるところによると、この「超解像」技術が進化すると、昔の古ーい映像もハイビジョン画質にできちゃったりするのだとか。
オーディオではもう出てますね。フルトヴェングラーのCDとか、同じ録音でもデジタル処理の違いでバージョンの違うのが何枚も出てたりします。映画でもデジタルリマスターのDVDとかだいぶ出てますし。ただ新しい技術はノイズを消すとか色の劣化を直すに留まらず、高解像度の信号を新たに作れてしまうんです。
ですから、フルHDの「振り向けば・・・聖子」とか「1982 X'mas Queen 聖子 in 武道館」のBDも技術的には夢じゃないんです。
見たい・・・ハイビジョン20代の聖子ちゃん・・・

2008年10月10日 (金)

永遠の少女

CD選書盤の「SQUALL」から「Tinker Bell」を買った後は、ぽつりぽつりと1枚づつCDを買っています。大人買いはしないようにしてます。85年以降の曲はほぼ知らないので、毎月新譜が出るような楽しみが味わえるわけです。
今聴いているのは「永遠の少女」。

かなり良いです。「葡萄姫」も入ってるとなお良かったんですが。
(相変わらずB面曲は収録しないマーケティング?)
ただ、僕的にはジャケット写真はちょっと。(これ篠山紀信なんだ)

それに比べると最近のこのCMはなかなか結構です。
Diosa

http://www.paon-diosa.jp/
うまいこと撮るなあ、というのは置いといて、これならしばらくビジュアルでやって行けるのではないかと安心しています。
ん、これ白髪染めなんですか。。。

まあ、富士フィルムはアンチエイジングですからね。
あのCMでは中島みゆきさんとの共演、なかなか意外性の組み合わせ。
動画サイトにアップされてた音源では、昔のラジオで中島さんに「あ〜、わたし〜のなんちゃらかんちゃら」とか言われてたようですが、今はさすがにもうちょっと認識されてるでしょう。
これも何かの縁、中島さんに曲書いてもらってはいかがでしょうか。
今ならこれも意外にイケルと思うのですが。

2008年10月 8日 (水)

1982

1982年は「赤いスイートピー」で始まった。
いい曲だなあ。でも呉田軽穂って誰?

そして聖子ちゃんカットをばっさりショートに。

ショートもかわいいよなあ。

しかし僕はそれどころではなかった。留年が親の知るところとなり、怒られたり諭されたり。ともかくなんとか大学は卒業するからという約束で、春休みは実家に戻って自動車学校に通っていた。。

2回目の2年生が始まるころには「渚のバルコニー」だった。

〜そして秘密う〜

秘密ってなんだろう。

Mermaid ・・・なの

「小麦色のマーメイド」

当時は気にしていなかったが、色白の聖子ちゃんまったく小麦色ではなかった。

僕は大学に戻って、心を入れ替えたように勉学に励んだ、

わけでもなくとにかく卒業だけはしよう進級だけすればいいと、必要最小限の単位を確保するべく必要最小限の授業に出る日々。この頃の関心事は相変わらず山とクライミングのこと、秋には穂高、屏風岩東壁にしびれていた。

僕の体たらくをよそに(もちろん何の関係もない)、松田聖子の1982年は充実していた。「赤いスイートピー」で女性ファンの心をつかみ、聖子ちゃんカットをまねしていた女の子達はショートカットにしなければならなかった。(ちなみにあのおばちゃんパーマと言われるヘアスタイルは実はダイアナ・カットだったのだ。ヤンキー達の人気をつかんだのもこの髪型のころからだった。)

「野ばらのエチュード」でFNS歌謡祭グランプリを獲得、ピンクレディーに並ぶ9曲連続オリコン1位を達成すると、12月25日には初の武道館コンサート。巨大な会場を満員にし、たった一人で歌いきった。松田聖子には素晴らしき年となった。

1982年。第一次中曽根内閣発足、ロン・ヤス時代の始まり。

2008年10月 5日 (日)

鉄人

ええと、昨日は出かけてしまったので「オーラの泉」一日遅れで録画を見ました。感想というか、聖子ちゃんが出てるだけで口元がにやけてしまうので、ヨメサンの手前ごまかすのが大変でした。後半はオグシオでしたが潮田さんますますキュートになってていいですね。最初期の聖子ちゃんを思わせるところがある気がするんです。僕だけですか。はい。

今日は以下、たとえ話ということで。

ドラフト外、テスト生からの入団だった。
高校時代は常に地区大会で敗退、とうとう甲子園の土は踏めず仕舞い。ただそれでも、その荒削りの才能に注目したスカウトがドラフト指名をフロントに働きかけたものの、フロントは甲子園のスターにご執心、監督コーチの構想にも入っていなかった。それでも本人のプロ入りへの強い意欲が入団へと結びついた。

しかし入団までの苦労とは一転、入団後は一気に階段を駆け上がった。最初のシーズン、ドラフト1位の新人投手がキャンプ中に怪我に見舞われると手薄な投手陣を補強するために一軍に抜擢。オープン戦で結果を残すと開幕から一軍のローテーションに定着した。

スカウトが注目したその才能は一気に開花した。何よりもとにかく球が速かった。しかもスピードだけでなく球の切れ、伸びが素晴らしかった。それに比べて変化球はどろんとしたカーブだけ。それでもそのカーブが読みづらく意外なほど効果的だった。無名の新人としては異例なほどに勝ち星を重ね、ファンの人気もうなぎ上り、当然のようにシーズンの新人王を獲得した。

2年目のシーズンには既にエース級だった。おかげで連投につぐ連投、先発とリリーフにフル回転を強いられた。その使われ方では肩を壊すのは時間の問題だった。勝ち星こそ1年目以上に積み重ねたものの、シーズン後半には苦しい登板が続き、打ち込まれることも多くなった。その中でシーズン途中からの新しいピッチングコーチとの出会いに新しい投球法のヒントをつかみ始めたようだった。

3年目のシーズン、速球王はまったく別の投手、技巧派投手に変身した。投げる球はほとんどが変化球、それもいくつ球種があるのかわからないクセ球ばかり。かつての豪速球こそなくなったものの時折交えるスピードボールの切れは十分に効果的。軟投だ邪道だと批判を受けたりもしたが勝ち星はそれまで以上に積み重ねて行った。

4年目も5年目もエースは勝ち続けた。6年目に突然マウンドを去ったエースだったが、翌年にはまた球場に戻ってきた。

その後も副業を批判されたりスキャンダルにバッシングされたりという時期もありながら、それでもひたすらに投げ続けた。

メジャー・リーグへの挑戦もあった。メジャーでの勝ち星こそ挙げられなかったものの、メジャーへのマウンドに立つという夢にこだわり続けた。

桑田真澄は既に引退した。野茂英雄も清原もユニホームを脱いだ。1980年、山口百恵が引退した年に現役を引退した王貞治は、今年監督としてユニホームを脱ぐ。そして信じがたいことだが、28年目、エースは今もマウンドに立っている。しかも監督兼任。肉体的な衰えは隠すべくもないが、今日も魔球を投げ続ける。

まさに鉄人。

2008年10月 3日 (金)

野バラのエチュード

10月になったので、妄想シリーズ(シリーズかい!)第2弾はこれ。

(ここから妄想)

秋風とともに一通のエアメールが配達された。
見慣れない国の見慣れない切手。だが、誰からのものかはすぐにわかった。

新入生の彼女が僕らのサークルに現れたのは2年前だった。
僕らのサークル、と言ったって何かちゃんとした活動をしているわけじゃない。コンパをするのが唯一の活動みたいなもんだった。名前だけは「国際交流研究会」だったけど。

その彼女、およそ僕らのサークルには場違いな感じだった。少女漫画の主人公のようなセミロング巻き髪ヘア、お嬢様風のワンピース。
こんなかわい子ちゃん、うちのサークルの実態がわかればすぐにいなくなるだろうとみんな思っていたのだが、何が気に入ったのか不思議なことにそのまま居着いてしまった。まあ、誰もかわい子ちゃんがきらいなわけはなく、みんな結構ちやほやしていたから、それが功を奏したのかもしれない。
僕はといえば、サークルでは一目置かれている存在だったから、他の連中のように彼女をちやほやするわけにも行かなかった。
僕が一目置かれていたというのも、そう大した理由じゃなく、大学を1年休学して海外を一年放浪した経験がみんなに過大評価されていただけだった。まあ、海外を旅行してたのは嘘じゃないが、実際そんな放浪というほどワイルドな経験をしたわけでもなかった。最初はアメリカに留学してる高校の時の友達のところに転がり込んでみただけ。その後はむこうで知り合った奴にくっついてインドに行ったり、そこでまた日本人が集まってる安宿でぶらぶらして、また他の奴にくっついて別の国に行ったり。何か目的があっての旅でもなかったし、いつも日本人と一緒にいたせいで、英語だって大して身に付かなかった。

それでもコンパの時には、「インドってさあ、やっぱ価値観とか世界観変えられちゃうよね。」だのほざいていれば海外通のような顔をしていられた。

そんな僕に、これまたなぜかはわからないが、かわい子ちゃんの彼女はなついてきた。

「私、将来は国際貢献とか国際交流とか、そういう仕事がしたいんです。」目をきらきらさせてそんな事を言う彼女。完全に言う相手を間違えている。

「あれこれ考えてる前に海外に飛び出して、自分の目で世界を見てみなきゃ何も始まらないぜ。そんなお嬢様みたいな服着てるんじゃダメさ。」自分のことは棚に上げてえらそうなことばかり。

だから彼女が突然長い髪をばっさりショートにした時には驚いた。

彼女なりに大人になろうとしている決意のひとつだったのかもしれない。ショート・ヘアになっても相変わらずのかわい子ちゃん、サークルのアイドルだったのだけど。

大学のサークルなんて、ほれたのはれたのの話には事欠かない。

かわい子ちゃんももちろん例外じゃなく、何を考えたかよりによって僕に今度は恋愛相談。同じサークルの○○と△△と××、3人から告白されて、だけど彼女の意中の人は別にいるのに、さっぱりそいつの気持ちがわからないとかなんとか。

「ま、でもとにかく、自分を大事にすることかな。」なんて先輩面して言ってみたものの、説得力ゼロだな。なにしろ、つい気になって、聞かなくてもいいこと聞いちまった。

「それで、そいつとは、もうやったのか?」

彼女、顔を真っ赤にして下を向き首を降ると、何も言わずに帰って行った。そりゃそうだわな。

それからしばらく、彼女はサークルに姿を現さなくなった。

そして彼女は、大学3年目の年に1年休学して、あるNGO団体のボランティアとしてヒマラヤの麓の村に行ってしまった。まわりはショートカットの時以上にあっけに取られるばかり。僕はといえばその年も卒業できず、就職浪人と称してまだ大学でぶらぶら。

春に旅立った彼女からのエアメールを受け取ったのは、もう10月になった頃だった。

「こちらに来てからあっと言う間に5ヶ月もたってしまいました。来たばかりの時はすべてがカルチャー・ショックの連続でした。本当に先輩の言っていた通り、自分の目で見なければわからないということを実感しました。

でも、最近はようやくこちらの生活にも慣れて、現地の子供達ともコミュニケーションが取れるようになってきました。日本と比べるといろんな面で恵まれていませんが、どの子も目がとても澄んでいて、素敵な笑顔を見せてくれます。きのうは子供達が野性のバラを花束にして私にプレゼントしてくれました。こんな体験が出来るのも先輩がいろんなことを教えてくれたから、そして私の背中を押してくれたからだと思ってとても感謝しています。

こちらでは雨期が終わり、今まであまり見えなかった山々がよく見えるようになりました。なかでも神の山として信仰されている山が「テュルリ・ラ」というとてもきれいな山です。この山がよく見える日にはいろんな願い事をするのだそうです。

でも「テュルリ・ラ」ってなんだか楽しい名前でしょ。私、「テュルリラ、テュルリラ」って節をつけて歌ったりしてるんです。もちろんお願いごとをしながらですよ。」

「テュルリラ、テュルリラ」か。

二十歳の彼女は僕よりももうずっと大人みたいだ。

僕も来春こそは大学を卒業しよう。

(おしまい)

2008年10月 1日 (水)

ナブッコ

今日はヨメサマが留守なので、じっくり「Count Down Live Party2005ー2006 」のDVDを見ています。
最初のパートの「星空のドライブ」や「流星ナイト」、「一千一秒物語」もナイスですが、カウントダウンの後の最初の曲は会場全体ペンライトの中「Only My Love」でした。
〜愛は自由な空の翼〜
最高です。
ヴェルディのナブッコ、「行け、我が想いよ、金色の翼に乗って」みたいじゃないですか。

え、翼しか合ってない?いやいや。精神的な深い部分でつながってるんです。

この歌はイタリア統一の象徴的な歌となり、イタリアの第二の国歌とも言われているのだそうで。

ええ、「Only My Love」を日本の第二の国歌にしても良いぐらいと思ってますよ。まあ、タイトルが英語なのはいかがなものか、ですけどね。

こんなこと書いてるうちに、アンコールは「SQUALL」じゃないですか!

三浦・小田コンビ最高!聖子ちゃーん!

だめだ、よっぱらっとるわ。。。

あ、一つ忘れてた。ナブッコとぶりっ子って語感が似てませんか。

すいません、最後の「20th Party」見たらもう寝ます。

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